2021年御翼11月号その3

       

神が必要とされるなら天の窓が開く ―― 柏木哲夫医博

  クリスチャンになった柏木先生には、様々な変化が起きたが、一つは心が自由になったことである。先生は、自分は「計画人間」だったと言われる。何でもきちんと計画を立てて、そのとおり進まないと気持ちが悪いのだ。ところが受洗後、神が流れを造られるのだから、「委ねる」「お任せする」という生き方をするようになった。例えば、二つの道が示されたとき、どちらを選ぶかは、人間はロボットではないから、自由意思で決断すればよい。しかし、決断に至るまでの道を備えられるのは神である、という確信が与えられた。委ねる対象、責任をとってくださる方を見つけた、という感じだという。クリスチャンになってからは、ずっとその「神の流れ」に従ってこられたのだ。
 クリスチャン医師となった柏木先生は、昭和44年、32歳で米国ワシントン大学に留学した。そこで後のホスピス医療につながる取り組みを目にする。それは、様々な専門家がチームを組んで、末期患者のケアをするというものであった。帰国後、淀川キリスト教病院で精神科を立ち上げ、一年後の昭和48年、一般病棟でホスピスを導入してみたが、不具合が生じる。時には回復の喜びと、死の悲しみが同じ病室で隣り合わせとなる状況に、ホスピス専門の病棟の必要性を強く感じた。昭和54年、柏木先生は当時のホスピス先進国、イギリスを視察する。そこでは、医師、ナース、チャプレン(牧師)がチームを組み、多くのボランティアに支えられていた。病棟は明るく静かで、広くて暖かか った。こういうホスピスをどうしても日本でも作りたいと思ったが、病院から借金をして作るつもりはなかったという。2億円という費用をすべて寄付と献金でまかないたいと先生は主張した。すると、理事会で「甘い、そんな大金が集まるはずがない」と言われた。そこで柏木先生は、「神が必要とされるならば、天の窓が開くと思います」と言った。聖書(マラキ3・10)で「天の窓」と言った場合、必要ならば神が資金をも与えられる、という意味である。柏木先生は奔走(ほんそう)し、ホスピス医療を始めてから約10年後の昭和59(一九八四)年、全国で2番目となるホスピス病棟が完成した。
 柏木先生が確信をもってホスピスを始めることができたのは、祈りながら御心を求めてきたからであった。3年間の米国留学が終わる頃の昭和47年、先生の元に日本から二通の手紙が同時に届いた。一つは大阪大学精神科の教授からで、助手として阪大に戻らないかという有り難い誘いであった。もう一つは、淀川キリスト教病院のブラウン院長からで、病院で精神科を開設してくれないか、というものである。決断を迫られた柏木先生は、プラス・マイナスのリストを作成した。臨床研究をする環境、給与、将来性、通勤距離などに関して二つの職場を比較すると、全て阪大の方が上だった。世間体も阪大病院の方が良さそうだった。ところが、リストの最後に「御心」と書いてしまった。それは、神に書かせられたようだったという。そして、リストを見ているうちに、「御心」という文字が大きく見えてきた。それで、「仕方がない」という気持ちで淀川キリスト教病院に決めた。その導きがなければ、ホスピスを始めることなどなかったであろう、と先生は言う。


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